PR

【ヨガ哲学】ヨーガは本当に必要か?無知の観察。幻のヨガの書ヨーガ・ビージャに21節~25節に見る

シヴァに女神が教えを乞う、ヨーガ・ビージャ翻訳 Yoga Bija
ヨガ哲学に興味をお持ちになった稀有なみなさま、当ブログにご訪問頂きありがとうございます。
ご一緒にヨガ哲学を楽しみましょう♪

幻のヨガの書、ヨーガ・ビージャの日本語訳&解説を一般向けに初公開しております。
(こちらから原文を読んでいます↓)

ヨーガの神様であるシヴァ神に女神が問いかけました。
「迷いは無知から生まれるのだから、解放は智慧によってのみ得られるでしょ?
だったらヨーガは一体、どうやって人を助けるっていうの?」と。

いったいヨーガの神様は何と答えたのでしょうか?

The Yoga Bijam

ヨーガ・ビージャ21節~23節 原文&訳

21節
īśvara uvāca |
シヴァが答える

satyam etat tvayoktaṃ te kathayāmi sureśvari |
jñānasvarūpam evādau jñeyaṃ jñānaṃ ca sādhanam || 21 ||
まさしく、あなたの言葉は真理だ。
よいか女神よ、心して聞きなさい。
まず知るべきは“智慧そのものの本質”であり、そしてまた、智慧は修行の道具でもあるのだ。

22節
ajñānaṃ kīdṛśaṃ ceti pravicāryaṃ vivekinā |
jñātaṃ yena nijaṃ rūpaṃ kaivalyaṃ paramaṃ śivam || 22 ||
識別ある者は、無知とは何かを深く見極めなければならない。
その洞察を通してこそ、自らの真の姿 ― 絶対の解放、至高のシヴァ ― を悟ることができる。

23節
asau doṣair vimuktaḥ kiṃ kāmakrodhabhayādibhiḥ |
sarvadoṣair vṛtto jīvaḥ kathaṃ jñānena mucyate || 23 ||
欲や怒りや恐怖から自由な人は、すでに清浄である。
だが、あらゆる欠点にとらわれている私たちが、どうすれば知識によって解放されるのか ― その道筋を問う。

ヨーガ・ビージャ21節~23節 解説

あれだけ前節までで「知識だけではダメ!」と熱弁していたシヴァ神。
それでも理解できない女神に「どうして知識だけではダメなのか?」と問われても、面倒くさがらずに優しく?教えてくれました。

kittyなな
kittyなな

「ダメってずっと言ってるのに何で分からないんだ!この、わからずやがっ!!」とか言って怒ったりはしないのですね(笑)

知識は「対象」でもあって、同時に「手段」でもあります。
つまり、知ること自体が修行であり、修行が知識を深めるという循環を生むのです。

知識により修行を深める為には、「まず無知がどんな性質であるのか、徹底的に観察しなさい」と説いています。
悟りへの道は【光を足す】ことよりも【闇を見抜く】ことから始まるのです。

無知とは

ここで言われている無知ajñāna(アジニャーナ)と記されています。
ヨーガではこのajñāna(アジニャーナ)の他に、avidyā(アヴィディヤ)と言う言葉も、無知としてよく使われています。

良く出てくる言葉なので、ヨガ哲学を学ぶ上で知っておく事がとても大切な単語です。
二つの違いを少し解説していきますね。

ajñāna (アジニャーナ)

a = ア
jñāna = 知識・認識
直訳すると「無知」「知識の欠如」

avidyā (アヴィディヤー)

a = 否定の接頭辞(~でない)
vidyā = 知識
直訳すると「無知」「真理を知らないこと」

つまり、ajñāna(アジニャーナ)は幅広く、一般的な知識の欠如、avidyā (アヴィディヤー)は単なる無知ではなく、実在を見誤る根源的な錯覚の事を言います。
ここでのajñāna(アジニャーナ)は広い意味で使われていて、avidyā (アヴィディヤー)と同じ意味です。

ヨガでは、この無知である事が苦しみの原因であると考えられています。

無知 ajñāna(アジニャーナ)の観察~仏教の「四聖諦(ししょうたい)」に見る~

「物事を正しく見抜く智慧のある人は無知とは何か深く見極めなければならない。」とシヴァ神は言いました。
これ、かの有名な仏陀も似たような事を言っているのです。

「苦を観察し原因を知り、そこから解脱に至る」

この言葉は、仏教の四聖諦(ししょうたい)の核となる部分です。
四聖諦(ししょうたい)とは、仏陀が悟りの後、最初に説いたとされる教えであり、「人生の苦しみをどう理解し、どう解放されるか」の 道筋の全体図 です。
ちょっとその流れを見て見ましょう。

四聖諦(ししょうたい)

1.苦を観察する

人生には「思い通りにならないこと(苦)」が必ずある。
たとえば、病気になること、大切な人と別れること、欲しいものが手に入らないこと、老いや死など。
まずは「苦しみが確かにある」と正直に見つめる。

2.原因を知る

苦しみには必ず原因がある。
仏陀はその原因を「渇愛(かつあい:強い欲望や執着)」だと見抜いた。
「もっと欲しい」「こうあってほしい」という心のクセが苦を生む。

3.そこから解脱に至る

原因が分かれば、それをやめればいい。
執着を手放すことで、苦しみから自由になることができる。
これが「解脱(自由・安らぎ)」という状態。

4.その為の八つの実践方法

苦を滅するための実践法がある。
それが 八正道(正見・正思惟・正語・正業・正命・正精進・正念・正定)。

この四聖諦(ししょうたい)の1~3がシヴァ神の言う「無知とは何か深く見極めなければならない。」と通じています。
人間が苦しみを感じるのは、無知だからです。

すなわち、苦しみに落ちる事もヨガでは無知故なのです。
だから、仏陀で言う苦の観察は無知を観察する事とも通じています。

本来とは違う自分を本来の自分と勘違いしているからこそ、苦しみが生まれる。
その、苦しみの正体をしっかりと見て、観察して、その原因を自分自身で知っていく事、そうして自分の無知を理解していくことが、まず無知からの脱却に必要です。

こう言うと、一般的な「無知」という言葉の印象から、ヨガ哲学を学び始めた方々の多くの方の中で勘違いが起こります。

ヨガの哲学を学べば、知識がついて無知ではなくなるのでは?

これは大きな落とし穴です。
だって、知識を学ぶ事 = 無知を観察する事 ではありませんから。

ヨガの哲学を学べば、ヨガでの無知がどのようなものなのか、という概念を学ぶ事は出来ます。
それによって、少しは周りの見方が変わる事もあるかもしれません。
けれどそれだけでは、それぞれ自分自身に根付いている無知を知る事は出来ません。

自分自身を観察する事によって、いかに自分が無知であるかを理解していくこと、それが無知の観察です。

正直これは、すごく苦しい作業です。
自分の無知を見つめる、それはイコール自分の中の見たくない部分を見ていく事でもありますから。

kittyなな
kittyなな

私の感覚だと、この作業は出産より辛い…笑

けれどその、自分自身の無知と対峙し続ける事で初めて、本当の自分が何者なのかを理解する事が出来ます。

もし、欲望や怒り・恐れなどの欠点から離れている人であったら、勘違いの私に囚われる事から自然に解放されているでしょう。
しかし実際の人々はそうではないのです。
常に欲望、怒り、恐れなどに支配されています。
いつもいつも支配されています。
そんな状況でどうやって知識だけで自由になれるのでしょうか?

シヴァ神は遠まわしに、自分の無知を観察し、自分が無知である事に気付くように女神に促しています。

ヨーガ・ビージャ24節~25節 原文&訳

24節
devy uvāca |
女神は語った。

svātmarūpaṃ yadā jñātaṃ pūrṇaṃ tad vyāpakaṃ tadā |
kāmakrodhādidoṣāṇāṃ svarūpān nāsti bhinnatā || 24 ||
真の自己が理解されたとき、それは全きものであり、あまねく満ちている。
そのときには、欲望や怒りといった欠点もまた本質と分かたれたものではないと知られる。

25節
paścāt tasya vidhiḥ kaścin niṣedho ‘pi kathaṃ bhavet |
vivekī sarvadā muktaḥ saṃsārabhramavarjitaḥ || 25 ||
真の自己を悟った者には、もはや規則も禁令も意味を持たない。
識別を備えた人は常に自由であり、輪廻の迷いから解き放たれている。

ヨーガ・ビージャ24節~25節 解説

ここで、女神は煩悩を否定するのではなく、

煩悩さえも本質から切り離されていない

と説いています。

本当の自分は遍満していて、どこにも及ばないところがないのです。
だから、欲望や怒り、恐れといった心をかき乱すものにさえ広がっていて、それらの存在すら本当の自分から完全に独立しているわけではありません。
つまり、本当の自分の光の中に、欲望や怒りさえも映し出されています。それらは自分と無関係なものではないのです。

だから、物事を正しく見抜く智慧のある人とっては、規則や禁止の枠組みは不要になります。

規則や禁止とは

ここで言う、「規則や禁令」は当時のインド社会において、人々の日々の行動を厳格に規定していた、主に以下のものです。

1. ヴェーダの祭儀規定(カルマ・カーンダ) 【当時インドで大切にされていた祭事や儀式】

規則 (Vidhi):
「解脱を望むなら、この祭儀を執り行わなければならない」
「息子を授かるためには、あの供儀を捧げなければならない」といった、
特定の目的を達成するために「〜すべし」と定められた宗教的義務。

禁令 (Niṣedha):
「この日に肉を食べてはならない」
「特定のカーストの者と食事を共にしてはならない」といった、
「〜すべからず」と定められた宗教的タブー。

2. カーストや社会的立場に基づく義務(ヴァルナ・アーシュラマ・ダルマ)

規則 (Vidhi):
バラモン階級であればヴェーダを学び、
クシャトリヤであれば国を守る、といった、
自らの階級やライフステージ(学生期、家住期など)に応じて果たすべきとされる社会的・道徳的義務。

禁令 (Niṣedha):
自らのカーストに定められた職業以外に就いてはならない、
といった社会的身分に根差した禁止事項。

これらは、今のインドでも残っているものではありますが、ヨーガ・ビージャが書かれた当時は今とは比べ物にならないくらい厳格でした。
たくさんの方が苦しんで、逃れたくなっていたと思います。

インドの規則や禁令を見ると、日本人の私たちにはなんだか無縁な気持ちになるかもしれません。
けれども、日本社会には日本社会で、たくさんの規則や禁令があります。

だって、日本にも「〜しなければならない」「〜してはならない」いっぱいありますよね?
他の国でも同じです。
宗教的な祭事や規律、カースト制度の話なんかが出ると別世界のように感じられるかもしれませんが、実はどこの国にも共通する話だったりします。

ここから自由になれるとしたら、それはすごいです。
でも、どうして真の自己を悟ると、これらの規則や禁令から自由でいれるのでしょうか?

どうして規則や禁令から自由でいられるのか?

物事を正しく見抜く智慧のある人がこれらの規則や禁令から自由になるのは、彼らが傍若無人に好き勝手する反社会的な人になるからではありません。
その理由は、幻の網に絡まっている【勘違いの私】がいなくなっている所以なのです。

具体的には以下の3つ。

行為者意識(エゴ)の消滅:
物事を正しく見抜く智慧のある人は「私が行為している」というエゴ(アハンカーラ)が消滅しています。
全ての行為は、ただ自然の法則(プラクリティ)の中で起こる現象として捉えられます。
そのため、行為の結果(善悪、功徳、罪)がその人自身に帰属することがありません。
結果を気にする必要がないので、「善い結果を得るための規則」も「悪い結果を避けるための禁令」も意味を失います。輪廻からの離脱:
これらの規則や禁令の多くは、より良い来世に生まれ変わったり、天界での幸福を得たり、
といった輪廻(サンサーラ)の枠内での幸福を目的としています。
しかし、物事を正しく見抜く智慧のある人はすでにその輪廻というゲーム自体から降りています。
そのため、輪廻ゲーム内のルールを気にする必要自体がありません。内なる法の発見:
物事を正しく見抜く智慧のある人は、外側から与えられた規則に従うのではなく、自らの内なる本性(スヴァバーヴァ)、つまりアートマンから自然に湧き上がる、普遍的な法に従って行動します。
その行動は、結果として社会の調和を乱すものではなく、むしろ慈愛に満ちたものになります。
そのため、社会のルールを考えずとも犯すこともありません。

つまり、真の自由とは、「〜しなければならない」「〜してはならない」という外的な動機から完全に解放され、自己の内なる真理から、あらゆる行為が自然に起こってくる境地のことなのです。

ところで、余談ですけれど、内なる法の話を考える時、私はいつも、自分の子供の事を思い出してしまいます。
とても低レベルなお話で恥ずかしいですが、ゲーム大好きな息子は、いつもいつでもゲームをしたいタイプです。
一日にゲームをする時間は決まっているのですが、あの手この手で超過しようとしてきます。
もし彼に好きなだけゲームをする権利を与えたら、恐らく朝起きてから寝るまで、トイレ以外の時間はずっとゲームをしているでしょう。

かたや娘はゲーム好きではありますが、基本的に時間を超過する事はありません。
彼女に好きなだけゲームしていいよ、と言ったとしても、常識の範囲内で自分でやめます。

すると、異常な超過を繰り返した息子はゲーム自体を禁止されてしまう事もあり、娘は禁止とは無縁でゲームを楽しめています。

kittyなな
kittyなな

……息子……色々と残念です…

心が荒れている子が多い学校は、必然的に校則が多くなってしまうと聞きます。

悟りを開いた世界の人の話でなくても、自分の内側に法がある人と無い人では自然に規則や禁止の厚みが変わってくるものだと思います。

シヴァ神と女神の会話のズレ

こうして、悟りを開いて、物事を正しく見抜く智慧のある人の話を出しては、「智慧があればヨーガはいらないよね?」とたたみかけている女神です。

ここで皆さま、お気づきでしょうか?
女神とシヴァ神のこの会話、ずっと噛み合っていません。
少しずれているのです。

女神はずっと、悟りを開き、物事を正しく見抜く智慧のある人目線で話を進めています。
既にゴールに辿り着いた理想的な状態を基準に、ゴール地点の目線から問いかけているのです。
「最終的に智慧だけで解放されるなら、途中のプロセス(ヨーガ)って本当にいるの?いらないよね?」と。

一方シヴァ神はヨーガの実践的な指導者としての立場を一貫して話しています。
「君の言う通り、欲望から解放された聖者はすでに清浄だ。しかし、欠点だらけの『私たち(未熟な実践者)』が、どうやってその境地にたどり着けるというのか?そのための方法論がヨーガなのだよ。」と
スタート地点の視点から話しているのです。

これは【健康】について例えてみると分かりやすいかもしれません。
悟りを開いた人vs普通の人  は  健康な人vs病気の人  です。戦っているわけではありませんが

女神: 「そもそも、完全に健康な人に、薬や食事制限は必要ないですよね?」

シヴァ: 「その通り。しかし、私たちはまだ病気だ。健康になるために、薬(ヨーガの実践)が必要なのだ。」

女神: 「でも、健康な人は、もはや『油っこいものを控えなさい』とか『毎日運動しなさい』といった規則には縛られず、自由に暮らしていますよ?」

こう見ると、何だか滑稽。
女神には健康な人しか見えておらず、何も分かっていない事がよく理解できると思います。

現段階の、シヴァ神と女神の会話はこんな感じです。
さてさて、ちっとも理解しない女神に、シヴァ神はどうお話するのでしょうか?

続きは次回……

コメント

タイトルとURLをコピーしました