ご一緒にヨガ哲学を楽しみましょう♪
幻のヨガの書、ヨーガ・ビージャの日本語訳&解説を一般向けに初公開しております。
(こちらから原文を読んでいます↓)
前回、ヨーガの神様であるシヴァ神に女神が問いかけました。
「人間はみんな嬉しい事、辛い事を味わいながら幻想の糸に絡まって生きています。
そこから自由になる為にはどうすればいいのですか?」と。
いったいヨーガの神様は、なんと答えたのでしょうか?
The Yoga Bijam
ヨーガビージャ6節~11節 原文&訳
6節
īśvara uvāca |
主は、静かに語り始めました――。
sarvasiddhikaro mārgo māyājālanikṛntakaḥ |
janmamṛtyujarāvyādhināśakaḥ sukhado bhavet || 6 ||
それは、あらゆる成就をもたらす道。
幻の網を断ち切り、生まれ、死に、老い、病む――
この輪を断ち切って、真の安らぎを授ける道なのです。
7節
baddhā yena vimucyante nāthamārgamataḥ param |
tam ahaṃ kathayiṣyāmi tava prītyā sureśvari || 7 ||
その道を歩めば、束縛の鎖は断ち切られ、真の自由が訪れる。
それは、いかなる導き手の道よりも優れた道――
さあ、それをあなたに語りましょう、
神々の女王よ、私の敬愛するあなたに。
8節
nānāmārgais tu duṣprāpyaṃ kaivalyaṃ paramaṃ padam |
siddhamārgeṇa labhyeta nānyathā śivabhāṣitam || 8 ||
多くの道を歩んでも、絶対の自由は容易には見つからない。
それは、完成された道を通してのみ手にすることができる。
ほかの手段はない――
シヴァがそう語られたのだ。
9節
anekaśatasaṃkhyābhis tarkavyākaraṇādibhiḥ |
patitāḥ śāstrajāleṣu prajñayā te vimohitāḥ || 9 ||
無数の論理や文法、言葉の技巧に没頭するあまり、
人々は知識という巨大な網に絡め取られ、
もともとの清らかな知性までもが迷いの中に沈んでしまった。
10節
anirvācyapadaṃ vaktuṃ na śakyate surair api |
svātmaprakāśarūpaṃ tat kiṃ śāstreṇa prakāśyate || 10 ||
究極の境地は言葉を超えており、神々ですら語ることはできない。それは自己の内なる光そのものである。そんな真実を、いかなる経典の言葉が伝えきれるだろうか。
11節
niśkalaṃ nirmalaṃ śāntaṃ sarvātītaṃ nirāmayam |
tad etaj jīvarūpeṇa puṇyapāpaphalair vṛtam || 11 ||
真の自己は一つにして純粋、静けさに満ち、すべてを超え、いかなる苦しみにも染まらない。しかしそれは、生き物として現れるとき、善き行いと悪しき行いの果報に包まれ、その光は覆い隠されてしまう。
ヨーガ・ビージャ6節~11節 解説
ヨーガの神様が、まず、人間の苦しみを説いています。
マーヤー(幻想)の網、そして生老病死。
この、人間の苦しみの原因を断ち切っていく必要がある。と。
ところで、釈迦が説いた四苦八苦はご存じでしょうか?
四苦は人間存在の普遍的な条件、そして八苦は人間関係や欲望、心の性質から来るものです。
これが、このヨーガの神様であるシヴァ神の説いた人間の苦しみと驚くほど響きあっています。
そして、この釈迦の四苦八苦を見ていくことが、日本人である私たちにはとても分かりやすいのではと思い、ご紹介します。
四苦八苦(しくはっく)
四苦(人間が避けられない4つの苦しみ)
-
生苦(しょうく) – 生まれる苦しみ。母胎からの誕生に伴う苦しみ、また「生きていく」こと自体の苦。
-
老苦(ろうく) – 老いる苦しみ。体の衰え、心の不自由さ、尊厳を失うことなど。
-
病苦(びょうく) – 病の苦しみ。身体の痛みや心の不安、制約。
-
死苦(しく) – 死ぬ苦しみ。生命の終わりへの恐怖や苦痛、死に際の別離。
八苦(四苦を広げた8つの苦しみ)
-
愛別離苦(あいべつりく) – 愛する人と別れねばならない苦しみ。
-
怨憎会苦(おんぞうえく) – 嫌いな人・苦手な人と会わねばならない苦しみ。
-
求不得苦(ぐふとくく) – 欲しいものが得られない苦しみ。
-
五蘊盛苦(ごうんじょうく) – 人間の心身そのもの(五蘊=色・受・想・行・識)に縛られる苦しみ。
まさに、人間が日々苦しんでいる事を的確に表現していますよね。
これを、ヨーガ・ビージャで見ると、生まれ、死に、老い、病む、は文字通り四苦の生老病死そのもの。
そして幻の網と言うのが釈迦の言う八苦に相当します。
ヨーガでは様々な苦しみはマーヤーと言う幻・幻影の投影によって引き起こされていると考えられています。
つまり八苦は、幻の網に引っかかって逃げられなくなっているような状態とリンクしています。
そんな縛られた状態から自由にしてくれる、一番最高の道を教えますよ。とシヴァは話しています。
だって、自由を得る為の道は、どんな道でも良いわけではないのです。
やみくもに歩いたら網の外に出れた!なんて事は、滅多にあり得ません。
大体はさらに網に絡まってしまいます。
その為、出来るだけ整えられ、先人が登った後の道を歩むのが安全です。

「俺は敷かれたレールの上は歩かない!道なき道を歩むのが好きなんだ!!」と言う方もいらっしゃると思います。けど私は怖い道は歩きたくないタイプです、笑
シヴァさんの後ろ、歩いていいですか~?
そしてまた、正しい道だと思っても、頭ガチガチに頭脳で考えるだけでもダメなのです。
例えば、ヨーガや仏教の有名な学者がサマーディ(ヨーガのゴール)に至っているかと言えば、そうではないのが答えですね。
これは、ヨーガ・ビージャが書かれた当初のインドの思想界では「ヨーガの完成の為には、ジニャーナ(知識・智慧)だけで十分だ。苦しい身体的な実践は不要だ!」と言う考えが主流だったことに真っ向から反対を述べている箇所です。
「実践なくして、どうして完成があり得ますか?」と。
実際、ラマナ・マハルシさんとか、ダイレクトにヨーガの方ではないですけれど、クリシュナムルティさんとか、ジニャーナ(智慧)で達成されているであろう方はいらっいます。
とすると、「あり得るか?」と問われたら「あり得る」が、本来の答えになるのでしょう。
でもそれは、おそらくものずごく難しいのです。
稀有な人でないと達成できない厳しい道。
だから、そんな稀有な人物でも何でもない、普通の人々が実践なくして完成があり得ますか?となると、あり得ないのでしょう。
ヨーガのゴールで見える世界を語ると言う事は、もともと言葉では表せない世界を言葉にする、ということです。
言葉は万能ではなく不完全で制約がある道具でしかありません。
そもそも言葉で表せないものを、そんな不完全な道具で表すとどうなるでしょうか?
あちこち歪みだらけになってしまいます。
ジニャーナの道に限らず、今読んでいるヨーガ・ビージャであっても、頭ガチガチに読んでいたら何も見えて来ません。
パッと理解出来ない話に出会った時、それを無理やり未熟な自身の知識と常識に当てはめて考えようとすると、本当に書いてある事は見えないものです。
これが書かれた時代でも、既にたくさんの方が、正しい道を見つけたいと願いながら頭でっかりになりすぎて逆に正しい道から消えていったのでしょうね。

本当、どんなに時代や環境が変わっても、人間自体は何も変わらないんだよなぁと思ってしまいます
そして、本当の本当の自分(ヨガでは、真我・アートマン)は完全に純粋で自由なものだと教えてくれます。
個体(ジヴァ)として生きると、行為と結果の因果関係(ヨガでは、カルマ)に縛られて苦しみの中に落ちてしまうと。
今、ああだ、こうだと思い悩んでいる私は、全て因果関係の中に縛られている状態でしかなく、そこから自由になれたら本当の自分になれるのです。
ヨーガ・ビージャ12節 原文&訳
12節
devy uvāca |
女神は問うた
paramātmapadaṃ nityaṃ tat kathaṃ jīvatāṃ gatam |
tattvātītaṃ mahādeva prasādāt kathayasva me || 12 ||
変わることのない至高の自己が、なぜ生き物の姿として現れるのでしょうか?
その根本の理を超えた神秘を、偉大なる主よ、どうか恩寵をもって私に明かしてください。
ヨーガビージャ12節 解説
どうして、純粋な本来の自分(真我・アートマン)が行為と結果の因果関係(カルマ)に覆われた有限の生き物になってしまうのでしょうか?
と、女神が大問題を投げかける節です。
でも、本当にそうなんですよね。
本当の自己が、純粋でどんな苦しみからも自由で静けさに満ちているというのなら、その状態でずっといたら良いと思いませんか?
何でわざわざ「辛い、苦しい!幸せになりたい!!」と嘆くような境遇に身を置く必要があるのでしょう?
すっごい謎です。
そんなに素晴らしい世界から、望んでわざわざ幻想の世界にやってきているのでしょうか?
それとも、望まずともやってきてしまうのでしょうか?
本当、謎です。
シヴァ神は何と答えてくれるのでしょうか?
続きは次回のお楽しみ。
コメント