ご一緒にヨガ哲学を楽しみましょう♪
幻のヨガの書、ヨーガ・ビージャの日本語訳&解説を一般向けに初公開しております。
(こちらから原文を読んでいます↓)
詳細はこちら
ヨーガの神様であるシヴァ神に女神が問いかけました。
「最終的に智慧だけで解放されるなら、途中のプロセス(ヨーガ)って本当にいるの?いらないよね?」と。
いったいヨーガの神様は何と答えたのでしょうか?
The YogaBijam
ヨーガ・ビージャ26節~32節 原文&訳
26節
īśvara uvāca |
イーシュヴァラは語った
paripūrṇasvarūpaṃ tat satyam etad varānane |
sakalaṃ niṣkalaṃ caiva pūrṇatvāc ca tad eva hi || 26 ||
真の本質は完全に満ちており、それこそが真実なのだ。
それは形あるものであり、また形なきものであり、充足そのものであるがゆえに、すべてはそこに帰するのだ、美しき者よ。
27節
kalanāsphūrtirūpeṇā saṃsārabhramatāṃ gatam |
etad rūpaṃ samāyātaṃ tat kathaṃ mohasāgare || 27 ||
計らいや思考の動きによって、人は輪廻の迷いの中をさまよう。
この姿が現れるのは、まさに無明という大海に沈んでいるからなのだ。
28節
niṣkalaṃ nirmalaṃ sākṣāt svarūpaṃ gaganopamam |
utpattisthitisaṃhārasphūrtijñānavivarjitam || 28 ||
本来の自己の姿は、分割もなく、汚れなきもの。
それは空のように広がり、生まれることも、存続することも、滅びることもない。
動きや知識すら超えている。
29節
nimajjati varārohe tyaktvā vidyāṃ punaḥ punaḥ |
sukhaduḥkhādimoheṣu yathā saṃsāriṇāṃ sthitiḥ || 29 ||
麗しき者よ、智恵を忘れ去れば、
人は喜びや悲しみという幻影に、幾度となく沈んでいく。
それが輪廻を生きる人間の常なのだ。
30節
tathā jñānī yadā tiṣṭhed vāsanāvāsitas tadā |
tayor nāsti viśeṣo ‘tra samā saṃsārabhāvanā || 30 ||
智慧ある人であっても、欲望の残滓に支配されているならば、
凡夫と何ら違いはない。
その心のあり方は、輪廻に縛られた意識として等しいのだ。
31節
jñānaṃ ced īdṛśaṃ jñātam ajñānaṃ kīdṛśa punaḥ |
jñānaniṣṭho virakto ‘pi dharmajño vijitendriyaḥ || 31 ||
もしこれが『知識』だと言うのなら、では『無知』とは一体何を意味するのか。
真の知者とは、知識に根ざし、欲望から離れ、法を理解し、感覚を制御しているはずなのに。
32節
vinā yogena devo ‘pi no mokṣaṃ labhate priye || 32 ||
ヨーガという一致・統合・目覚めなくしては、神格をもつ存在でさえ自由には至らない。
だからこそ、愛しい人よ、ヨーガは宇宙の真理そのものなのだ。
ヨーガ・ビージャ26節~32節 解説
ここでまた、シヴァ神は本当の自己(アートマン)について丁寧に説明をしています。
「形あるもの」であり、「形無いもの」とは?真実の自己の正体
26節で本当の自己とは【形あるものであり、また形なきものであり】と言っています。
ここにあるkalaという語は「部分」という意味であり、「断片」「分離したもの」というニュアンスを持ちます。
物事が「部分」を持つということは、それが何らかの境界線によって区切られ、知覚可能な「形(rūpa)」を持っている状態を指します。
なので、sakalaは「部分をもつもの=形あるもの」です。
対してniṣkalaは「部分を持たない」ということですから、それは分離・限定される以前の、形のない、無限で均質な状態を指します。
その為、「部分を持たないもの=形のないもの」になります。
要するに、本当の自分は、形あるものであり、同時に形のないものであり、完全に満ちているって事です。

え…?????

その反応、当然です!
何言ってるの??って感じですよね(笑)
意味不明過ぎて皆さんシャッター下しがちですが、実はとっても面白いお話なので逃げないで聞いて頂けると嬉しいです☆
これは、ヨガのアドヴァイタ・ヴェーダーンタ哲学の核心ともいえる宇宙の究極の真理のお話をしています。
ヨガの哲学を理解する上でとても大切な部分なので、もう少し詳しく、分かりやすくみていきましょう。広大な海に例えて考えてみます。
真実の自己:ブラフマンとアートマン
海全体を一つのものとして見れば、それはどこにも切れ目のない、ただ一つの巨大な水の塊です。
これが『部分を持たない(ニシュカラ)』という状態です。
しかし、その海の表面に目を向けると、そこには無数の『波』が立ち、それぞれが独自の形と生命を持っているように見えます。
これが『部分を持つ(サカラ)』という現れ方です。
では、波は海と別物でしょうか?
いいえ、波は水の塊であり、海そのものです。
波という『部分』は、海という『全体』から一瞬たりとも離れて存在できません。
ここで言う『完全な充満(paripūrṇa)』とは、この海が、一つの全体でありながら、無数の波として現れることができる、その無限の可能性のことを表しています。
ヨガでは、この海をブラフマン(宇宙の根源原理)、波をアートマン(個の根源=真我)と呼んでいます。
では、なぜ完璧な海が、わざわざ波立つのでしょうか?
そんなに完璧な存在なら、波など打たずに静か~~~にしていたらいいのでは?とも思います。
シヴァ神は、その最初のきっかけを『創造の力の揺らめき』だと説明しています。
これは、静かな水面に、最初の『波紋』が広がるようなイメージです。
そして、その結果として生まれるこの世界は、まるで『壮大な夢』のようなものなのです。
夢に見る本当の自己
少しはイメージ出来ましたでしょうか?
もう少し実感して頂きたいので、今度は夢に例えて考えてみましょう。
あなたが眠っている時、あなたの意識はただ静かにそこに在るだけです。
しかし、そこにふと、一つの思いや感情が『揺らめき(スフールティ)』として生じると、それをきっかけに、あなたは壮大な夢の世界を創造します。
夢の中では、あなた自身が様々な登場人物になり、世界を体験し、喜び、苦しみます。
その世界は、夢を見ている間は絶対的な現実です。
しかし、目が覚めれば、その全ては自分自身の意識が作り出した幻影(迷妄)だったと分かります。
要するに、究極のリアリティ(あなたの本当の意識)が、それ自身の中で『揺らめき』、この輪廻(サンサーラ)という壮大な夢を見ているのだ、と教えているのです。
では、夢を見ている人が、夢の中の苦しみに本当に傷ついているのでしょうか?いいえ、本当のあなたは、ベッドの上で静かに眠っているだけですよね。
夢を見ている時に、『これはただの夢で、本当の私はただ寝ていて何も傷ついていない』と言う事を本当に理解出来ている人は、夢の中でどんな恐ろしい事が起ころうと怯える事はありません。
同じように、完全に本来の自己を理解している人は、この世界で起こるどのような出来事にも悩み苦しむ事が無いのです。
知恵だけ持っていても、本当の自己には出会えない
けれど、自分自身を知識として理解していても、この世界の悩み苦しみから逃れることはできません。
何故智慧を得ても完全な自己になることが出来ないのか、その答えが30節のvāsanā(ヴァーサナー)と言う言葉に隠されています。
やっかいなvāsanā(ヴァーサナー):まるでにんにく
vāsanā(ヴァーサナー)とは、サンスクリット語で『残り香』や『染み付いた香り』を意味する言葉です。
私たちが今まで生きてきた、さらには前世からの全ての働きの印象がvāsanā(ヴァーサナ)として染みついています。
それはとても強烈に刻み込まれたようなもので、知識を得、何かを理解したとしても簡単に取れるものではないのです。
このvāsanā(ヴァーサナ)をより理解しやすくする為ににんにくの入った壺を想像してみて下さい。
壺の中には、たくさんのニンニクが入っています。
これが、私たちが過去から積み重ねてきた行為(カルマ)や、それによって生まれた欲望や怒りです。
ある日、あなたは真理に目覚め、壺の中のニンニクを全て捨て去り、壺をきれいに洗いました。
これが『智慧(ジュニャーナ)』を得た状態です。
あなたはもう、壺が空であることを知っています。
しかし、どうでしょう。
壺をきれいに洗っても、ニンニクの強烈な香りは、壺の素焼きの壁に深く染み付いて、なかなか消えません。
この『染み付いた残り香』こそが、ヴァーサナーです。
あなたは、壺が空だと知っている(ジュニャーニ)。
でも、ふとした瞬間に、この残り香がフワッと立ち上ると、まるでまだニンニクが入っているかのように感じ、昔の反応が蘇ってしまう。
この瞬間、『空だと知っているが、ニンニクの香りがする壺』と『まだニンニクが入っている壺(愚者)』の間に、外から見た体験上の区別はなくなってしまうのです。
智慧(ジュニャーナ)によって壺を空にすること(真理を知ること)は、第一歩に過ぎません。
その後に、染み付いた香り(ヴァーサナー)を完全に消し去るために、壺を天日干しにしたり、風にさらしたりする長いプロセスが必要です。
それなくしては、壺の中にはずっとにんにくの香りがしみついたままでしょう。
この、染み付いた香を完全に消し去る為の行為が、『ヨーガの実践』なのです。
その為、智慧だけ得ても悩み苦しみの網から逃れる事は出来ず、ヨーガの実践は必要不可欠なのだ、とシヴァ神は言っています。
ヨーガの実践を怠ると、せっかく真理を知っても、残り香に引きずられて、凡人と同じ苦しみの世界に逆戻りしてしまうのです。

その為の方法の一つが、ヨーガの実践ですね。
夢の中でも囚われるニンニク(ヴァーサナー)の強さ
先ほど、夢の中の出来事は夢の中の事だから、どんなに恐ろしい出来事があろうと寝ている自分自身は傷つく事はない。
お話ししました。
だから、どんな怖いストーリーの夢であっても、恐れずにただその夢に身を任せていればいいのです。
けれど常にニンニクの壺を抱えている私たちは、寝ていてもニンニクの壺を手放す事はありません。
実際に夢の中で「これは夢だ!」と気が付いた時に起こる、2つの実例をお話します。
主人と私の実例です。
Case 1 主人の場合
主人は怖い夢や冒険物の夢を多く見るタイプです。
そして、小学生男子を心の中にいつも飼っています。
そんな主人、これまで何度も夢の中で「これは夢だ!」と気が付いた経験があるのですが、どんな事が起こるでしょうか?
ある日の夢は、大量のゾンビに追いかけられる夢。
街は崩壊していて、人々は阿鼻叫喚逃げまくり、ゾンビに噛まれた人間がどんどんゾンビに変化していきます。
そんな中、恐怖で逃げまくっていた主人はハタと気が付きました。
「あ、これ夢だ…」
その瞬間、主人はピタリと足を止め、ゾンビの方を振り向き、ドラゴンボールのかめはめ波をゾンビ達に打ち込んだそうです。
そうです、夢ですが、しっかりと意識を持って。
その結果、ゾンビは吹き飛び、街も吹き飛び、らしいのですが、もう夢だと分かっているので怖いものなし。
主人は戦ったり空を飛んだり楽しんだそうです。
Case 2 私の場合
私は怖い夢は全く見ないタイプです。本当に全く。冒険物やSfチックな夢を見る事はありませんが、夢の中ではいつも楽しい日常が繰り広げられています。
そんな私は実は現実社会より夢の世界が好きかもしれません。寝る前はいつもウキウキして寝るのが大好きです。
では、私が夢の中で「これは夢だ!」と気が付いた時はどうなるでしょうか?私も何度か経験しています。
夢の中の日常で、私はお友達とカフェでお茶をしています。
そんな時、ふと気が付いてしまいました。
「あ、これ夢だ…」
その瞬間私は少し残念な気持ちになってしまい、「この後起きないといけないの嫌だなぁ…」「もっとずっと寝ていたいなぁ…」と考え始めてしまいました。
この2つのお話、内容は違いますが、意味合いは全く同じです。
夢の中までニンニクの壺(ヴァーサナー)を抱えて持っているのです。
だからこそ主人は、夢だと気が付いた時に普段の性格の癖が100%出て戦闘民族に変身します。
そして私は夢の世界に執着して「目覚めたくない」と悲しくなるのです。
これはまさにシヴァ神が語る、真実を知り、智慧を持ってもそれだけではダメと言う話の象徴です。
女神は「夢が夢だと分かっているなら、もう怖がったり楽しんだりすることも無いでしょう?」と繰り返していますが、
シヴァ神は「夢が夢だと分かっても、ニンニクの壺を抱えている限りダメなんだよ。」と言っているのです。
夢の中で夢だと気が付いた時、自分の性格の癖(ヴァーサナー)を遺憾なく発揮しているようでは、夢だと気が付いていない時と結局何も変わりません。

にんにくの壺を空にして、空っぽのまま保ち、そしてその残り香も全て消し去るまでの道筋は、とても知識を得るだけでは叶いそうにありませんね。
ヨーガ・ビージャ 33節 原文&訳
33節
devy uvāca |
女神は語る
anyat kiñcit parijñeyaṃ jñānināṃ nāsti śaṅkara |
viraktātmakaniṣṭhānāṃ kathaṃ mokṣo bhaven na tu || 33 ||
シヴァよ、真理を見抜いた者には、もはや探し求めるべき知識は存在しません。
すでに離欲を得て、自己に根ざしている者にとって、解放は必然なのです。
解放が訪れないなどと、どうして言えるでしょうか。
ヨーガ・ビージャ 33節 解説
ここでもまた、女神は同じ質問を繰り返します。
真理を知ったものは、もはやそれ以上、知らなくてはいけない知識なんてないでしょう?
すでに全てを知っている人にとって、それでも悩み苦しみから自由になれないなんてどうして言えるの??
と。
女神はやはり真理を悟った人の立場から考え、まだ苦しみの渦中にいる普通の人の存在を考えられずにいます。
女神の頭の中にあるのは、常に壺からニンニクが空になり、残り香まで綺麗さっぱり無くなっている人の存在だけです。
何度も何度も女神は同じ事を聞いて、このやりとりが続く感じ、ちょっとモヤモヤするような気もします。
けれどこれ、現実の私たちも同じです。
ヨーガを学ぶ現場でもたくさん見てきました。
そして私自身もやっていた(る?)と思います。
「でも、それは…」
「だって、そこは…」
「そうかもしれないけれど…」
自分たちの今まで生きてきた常識に無理やり当てはめて、堂々巡りに同じ質問が繰り返されていきます。
ヨーガの世界のゴールと言うものが、それくらい得難いものである証拠ですね。
女神はある意味私たちの代弁者かもしれません。
そんな理解の遅い私たちの質問に、シヴァ神はなんとお返事をしてくれるのでしょうか?
続きは次回…♪




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