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『ヨーガ・ビージャ』日本語訳:第6回|死の間際の一言は人生の「集大成」。聖者が最期に「ぶどうは甘い」と言えた理由

シヴァに女神が教えを乞う、ヨーガ・ビージャ翻訳 Yoga Bija
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幻のヨガの書、ヨーガ・ビージャの日本語訳&解説を一般向けに初公開しております。
(こちらから原文を読んでいます↓)

ヨーガの神様であるシヴァ神に女神が問いかけました。
「すでに全てを知っている人にと対して、それでも悩み苦しみから自由になれないなんてどうして言えるの??」と。

いったいヨーガの神様は何と答えたのでしょうか?

The YogaBijam

ヨーガ・ビージャ34節~43節 原文&翻訳

34節
īśvara uvāca |
イーシュヴァラは語った

apakvāḥ paripakvāś ca dvividhāḥ dehinaḥ smṛtāḥ |
apakvā yogahīnās tu pakvā yogena dehinaḥ || 34 ||
この世の生きものには二つの段階がある。未熟な者と、成熟した者である。
まだ熟していない者は、ヨーガ(修行や内的目覚め)を持たない。
だが、成熟した者はヨーガを通じて心と魂を育み、解放されている。

35節
pakvo yogāgninā dehī hy ajaḍaḥ śokavarjitaḥ |
jaḍas tat pārthivo jñeyo hy apakvo duḥkhado bhavet || 35 ||
ヨーガによって内側から成熟した人は、澄んだ心を持ち、悲しみに囚われない。
だが未熟な人は、物質世界に縛られ、愚かさに覆われ、苦しみを生み続けるのだ。

36節
dhyānastho ‘sau tathāpy evam indriyair vivaśo bhavet |
atigāḍhaṃ niyamyāpi tathāpy anyaiḥ prabodhyate || 36 ||
たとえ瞑想に深く坐していても、感覚の力はなお彼を揺さぶる。
いかに厳しく抑えても、外の刺激に触れれば心は再び動かされる。
真の安定には、さらに深い成熟が必要なのだ。

37節
śītoṣṇasukhaduḥkhādyair vyādhibhir mānavais tathā |
anyair nānāvidhair jīvaiḥ śastrāgnijalamārutaiḥ || 37 ||
瞑想を妨げるのは、寒暑や苦楽、病や人との関わり、あらゆる生き物たちの影響である。
さらに武器や火、水や風といった外的な力も、心を動揺させる要因となるのだ。

38節
sarīraṁ pīḍyate cāsya cittaṃ saṃkṣubhyate tataḥ |
prāṇāpānavipattau tu kṣobham āyāti mārutaḥ || 38 ||
身体に痛みや圧迫が生じると、心も不安定になる。
呼吸の流れが乱れれば、全ての気の働きが乱れ、心身は大きな動揺へと引き込まれる。

39節
tato duḥkhaśatair vyāptaṃ cittaṃ lubdhaṃ bhaven nṛṇām || 39 ||
だからこそ、人の心は数えきれないほどの苦しみにとらわれ、欲望と執着に染まってしまうのだ。

40節
dehāvasānasamaye citte yad yad vibhāvayed |
tat tad eva bhavej jīva ity evaṃ janmakāraṇam || 40 ||
死の瞬間に心が何を観想し、何を抱くかによって、
その意識は次の生を形づくる。
生まれ変わりは、心の最後の想念が種となって起こるのである。

41節
dehānte kiṃ bhavej janma tan na jānanti mānavāḥ |
tasmaj jñānaṃ na vairāgyaṃ japaḥ syāt kevalaḥ śramaḥ || 41 ||
人は死ののちにどんな生が待つのかを理解していない。
だから、もし智慧や執着からの自由が伴わなければ、どんなにマントラを唱えても、それは魂を磨くことにはならず、ただの空しい労苦に終わってしまう。

42節
pipīlikā yadā lagnā dehe dhyānād vimucyate |
asau kiṃ vṛścikair daṣṭo dehānte vā kathaṃ sukhī || 42 ||
小さなアリが体についたなら、注意を向ければすぐに払い落とせる。
だが、サソリに刺された苦痛や、死の瞬間において、人はどうして安らかでいられるだろうか?

43節
tasmān mūḍhā na jānanti mithyā tarkeṇa veṣṭitāḥ || 43 ||
ゆえに、迷いの人は誤った理屈にとらわれて、本当のことを理解できない。

ヨーガ・ビージャ34節~43節 解説

「ほぼ成熟」は「未熟」と同じ?シヴァ神が語る厳しい二元論

何度説明しても、この世のあれこれから自由になった人の話しかせず、同じ質問を繰り返す女神に対して、シヴァ神は人間には2つのタイプがある事を教えてくれました。

  1. 未熟な者
  2. 成熟した者

普段、日常的にも「成熟した人」「成熟した大人」なんて言葉は使われますが、その成熟は「自分の感情をコントロールしていつも的確な言動が取れる人」と言う感じでしょうか。

この場合、それとは全く違います。

ヨガで言う成熟した者、とは

ヨーガのゴールにたどり着いた人
即ち、悩み苦しみから解放されて自由になった人の事です。
その人だけ。

それは、常に悩み苦しみの最中で藻掻いている人も、
もうほぼ解放されて悩み苦しみに惑わされる事が無くなっている人も、
同等に未熟な者という事です。

なんか、ほぼほぼ解放されているならば、「ほぼ成熟した者」って言っちゃってもいいのでは?と思いませんか。
けれど、ヨガの世界ではこの点はいつも明確に「完全に」ではないとダメ。

「ほぼほぼ」である限り、全く出来ていないのと同じ未熟なのです。

女神は終始この滅多にいやしない成熟した人の話だけをしているのですが、この世で生きているほとんどの人が未熟な人です。
だから、シヴァ神はそんな滅多にいない人の話ではなく、その他ほとんどの人を対象とした話が必要なんだよ、と手を変え品を変え女神に説明してくれています。

瞑想の静寂を打ち砕く「感覚」という名の巨大な荒波

人間の肉体の感覚は、それはそれは素晴らしく、そして、それはそれは恐ろしいほどの威力を持っています。
心をどれだけ落ち着かせることが出来ようと、この感覚器官の脅威の前にはいくらでも荒波マインドに引き戻されてしまいます。

もちろん、どれくらいの刺激で心が乱れ始めるかは人それぞれです。

シヴァの言葉、42節で

小さなアリが体についたなら、注意を向ければすぐに払い落とせる。
だが、サソリに刺された苦痛や、死の瞬間において、人はどうして安らかでいられるだろうか?

と言うものがありました。

私の娘は大の虫嫌いで、小さな頃は公園に遊びに行ってアリがいたら
「もうここでは遊べないっっ」と大号泣で帰った程です。

小学生になった今では、アリがいる事は許容できるようにはなりましたが、体についたら大発狂。
サソリでもいました?と聞きたくなるくらい取り乱します。

このように、ある人はアリ一匹でも動じ、またある人はアリもゴキブリも他の昆虫も爬虫類も全然平気かもしれません。
けれど、どれだけほとんどのものが大丈夫であっても、サソリや毒蛇に噛まれて動揺するのであれば、それはアリ一匹で大騒ぎるす子供と同じ未熟な人間なのです。

因みに私も勿論未熟者です。

今まで2回出産していますが、その2回とも最初はすごく助産師さんに驚かれました。

え?痛くないですか?大丈夫ですか?

陣痛が始まってから、ある程度の痛みまでは本当に全く大丈夫なのです。
いや、もちろん、陣痛が始まっているのも分かっていますし、痛みもそこにあるのですよ。
あるのですけれど、前半はいつも「痛みだな」とその痛みを観察していて、それが心に全く影響を与えていないのです。

陣痛の強さだったり、子宮口の開きだったりで見て、助産師さん曰く、通常ほとんどの女性が「イタイイタイ」となるところでも私はまだ至って普通らしいです。

でも、2回とも、「痛みに強いですね~」なんて言われていたのが突如一転。

ある一点を越えると、突然肉体の感覚に思考が飲み込まれます。
「痛い!痛い!」の大騒ぎの挙句、パンダの出産に難癖付け始める始末です。

kittyなな
kittyなな

パンダって、体の大きさの割に生まれる赤ちゃんが小さいから、絶対人間より出産楽だと思いませんか?

自分でも完全に肉体の感覚に心が持っていかれたのが分かるのですが、一度持っていかれると今の私ではどうにもなりません、汗

私なんて間違いなく、サソリに噛まれたり、死の瞬間なんて精神乱れまくりでしょう。

死の間際の一言は、人生の「集大成」である。偉大な聖者の最期から学ぶこと

40節
死の瞬間に心が何を観想し、何を抱くかによって、
その意識は次の生を形づくる。
生まれ変わりは、心の最後の想念が種となって起こるのである。

この説を読むと、私は毎度思い出す話があります。

最後の瞬間について、要所要所でインドの大先生が話してくれたお話です。
インドのヨーガの偉大な聖者の最後について。

聖者の元にはたくさんのお弟子さんがいました。

その聖者がもうすぐ亡くなるという時、弟子達はその聖者の周りに集まっていました。
きっと最後にとても為になる大切な言葉を聞かせてくれるだろう、と。

すると、聖者の口元が少し動きました。

お弟子さん達は、どんな言葉が聞けるのかと大きな期待をしながら耳を傾けます。
すると聖者は静かな声で言いました。

「喉が渇いた。ブドウが食べたい。」

お弟子さん達は拍子抜けな気分でしたが、一人の弟子がブドウを持ってきて一粒聖者の口に入れてあげました。
するともう一度、聖者の口元が動きます。

お弟子さん達は「こんどこそ!」と身を乗り出してその言葉を聞き取ろうとします。
聖者は一言

「ぶどうは甘い」

これが、この高名な聖者の最後の言葉になりました。
聖者は静かにマハー・サマーディに入られました。

※聖者の死をマハー・サマーディと言います。

このお話の意味、分かりますか?

お弟子さん達でなくとも、なんとなく拍子抜けするピンとこないお話かもしれません。
だって、そんな偉大な聖者の最後の言葉って聞いたら、なんだかもっと徳の高そうな、素晴らしい言葉が聞けそうな気がしますものね。

でも実は、ここで最後に「ぶどうは甘い」と呟けるところが、この聖者が本当に偉大な人である証でもあります。

ヨガでものすごく大切な考えに、「今、ここ」と言うものがあります。

文字通り、今この瞬間の一つ一つをしっかりと感じる事です。
人間とは面白いもので、今を生きていると思っていても、ほとんど今は生きていません。
過去の事、未来の事、そんな頭の中に生きています。

今、この瞬間、この一瞬に起こっている事だけに集中する事は出来ていないのです。

もしこの聖者が、多くの人と同じように今ここに生きていなかったら

  • 人生の何かを悔んだり恨んだりしていたら
  • もっとやりたい事があったと叶えられなかった何かに思いを馳せていたら
  • 「自分は人より高みにいる人間だから最後に良い言葉を残そう」などと傲り高ぶっていたら
  • 死の直前の肉体的な苦痛と同化していたら

絶対に最後のブドウを味わう事は出来ないのです。
ブドウはちょっと甘いのどの渇きを潤すものにすぎず、そこにわざわざコメントを挟む対象にもならず、自分が囚われている思考の方に引きずられます。

誰しも何か作業をしながら、何となく食べ物をつまむ経験ってあると思うのですが、その時、その食べ物の味ってそこまでしっかり感じていませんよね。
もちろん甘い辛いしょっぱい等は分かりますけど。

この聖者は、最後の最後までその瞬間、ブドウを食べている今ここにいる自分を感じていたからこそ、その瑞々しさを感じ、甘さを味わう事が出来たのです。

だからこそ、最後の言葉が

ぶどうは甘い

私のインドの大先生は自分もそのように亡くなりたいと言っていました。

最後の最後にしみじみと「ぶどうは甘い」と言えるのは、

死の恐怖を乗り越え、生への執着を乗り越えた事の顕れなのです。

それは、死の瞬間に何を思うかは、それまでどのような心で生きてきたかが如実に分かる時なのかもしれません。

だからこの、

死の瞬間に心が何を観想し、何を抱くかによって、
その意識は次の生を形づくる。
生まれ変わりは、心の最後の想念が種となって起こるのである。

と言うのは、死ぬ瞬間だけ、その一瞬で全てが決まるよ。と言う単純な話ではありません。

今、この一瞬一瞬をどのように生きているか、そしてどのように生きて来たかの集大成です。

「死の間際だけ頑張ればいい」が通用しない理由

死の間際の想念が次を決めるの?そんな一瞬の事で全てが決まるなんて不公平じゃない?

そんな女神の声が聞こえて来そうです。

実際にはここで女神の合いの手は挟まれていませんが、そのように思った人もいらっしゃるのではないでしょうか?

いくら死の間際はそれまでの人生の集大成と言えど、人間界には【火事場の馬鹿力】なる言葉が存在します。
死の間際だけその根性を発揮して、素晴らしい心でいられたら良いと言う事になってしまいます。

でも、そうは問屋が卸しません。

死の間際に、そんな火事場の馬鹿力なんて奇跡は起きない事を、次回シヴァ神が語っていきます。
さてさて、どんなお話になるのでしょか?

続きは次回…♪

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