ご一緒にヨガ哲学を楽しみましょう♪
幻のヨガの書、ヨーガ・ビージャの日本語訳&解説を一般向けに初公開しております。
(こちらから原文を読んでいます↓)
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前回、ヨーガの神様であるシヴァ神の話に
「死の間際の想念が次を決めるの?そんな一瞬の事で全てが決まるなんて不公平じゃない?」との疑問が生まれて終わりました。
いったいヨーガの神様の話は何と続くのでしょうか?
The YogaBijam
ヨーガ・ビージャ44節~47節 原文&翻訳
44節
ahaṅkṛtir yadā yasya naṣṭā bhavati tasya vai |
dehaḥ sa tu bhaven naṣṭo vyādhayas tasya kiṃ punaḥ || 44 ||
自我の執着が消え去った者にとって、肉体の死さえも恐れるものではない。
ならば、病苦など、なおさら取るに足らないことではないか。
45節
jalāgniśastraghātādibādhā kasya bhaviṣyati |
yathā yathā parikṣīṇā puṣṭā cāhaṅkṛtir bhavet || 45 ||
水火や刃のごとき外の苦難も、真に誰を傷つけることができようか。
自我の働きがしだいに痩せ細り、根を失ってゆくとき、それらの害もまた力を失う。
46節
abhyāsenāsya naśyanti pravartante śamādayaḥ |
kāraṇena vinā kāryaṃ na kadācana vidyate || 46 ||
繰り返しの修練によって迷いは次第に消え去り、静けさや平安などの資質が自然と芽生えてくる。
すべての結果には必ず原因があり、原因なしに何かが起こることは決してない。
47節
ahaṅkāraṃ vinā tadvad dehe duḥkhaṃ kathaṃ bhavet || 47 ||
「私」という思いがなければ、身体の痛みや不快は苦しみとはならない。
ヨーガ・ビージャ44節~47節 解説
ahaṃkāra アハンカーラ
この単語が、今回のシヴァのお話のポイントになります。
ahaṃkāra アハンカーラとは「これが私」「私は〇〇だ」と言う考えや結論の事です。
日本語では「自我」と訳されます。
なぜ私たちはゴキブリの死には泣かないのか?日常に潜む「私の」という罠
例えばです。
ゴキブリが家に出て、なんらかの方法でゴキブリ退治をしたとします。
ゴキブリの命が絶えていくのを見て、苦しみ涙を流す人がどれくらいいるでしょうか?
通常、退治をしている場合は「我が家に侵入してきた異物」とゴキブリを認識しているわけで、それに対して泣きわめき苦しむ事は無いでしょう。
むしろ、達成感やスッキリする感じがあるでしょうか?

因みに私は虫が苦手過ぎる事、ヨガの考えが心に根付いてしまっている事から、退治をした後は自分勝手な嫌悪感から心を大きく乱し命を奪ってしまった事に対する罪悪感と徒労感でいっぱいになります。
色々な意味で辛いので、虫さんには是非、我が家に上がって頂きたくないと考えています。
多くの人がゴキブリの死に涙をしないのは、ゴキブリに対して「私」と言う感覚が全くないからです。
これが、同じような命でも、少し「私」と言う感覚が乗ってくると話は変わります。
男の子に大人気のカブトムシやクワガタ。
正直私にはゴキブリとそっくりに見えていて、そのカッコよさが分かりません。
息子が幼稚園の時、初めて家でカブトムシとクワガタを飼いました。
その中で一番大きくて元気で「かぶとくん」と名付けて可愛がっていたカブトムシがいました。
そのかぶとくん、一番最初に死にました。
すると息子は大泣きです。
公園で虫の死骸を見ても、アリを踏みつぶしても泣いたりなんてしませんが、そのかぶとくんの死には泣きました。
それは息子がそのかぶとくんに「私のカブトムシ」という「私」をくっつけているからです。
そんなかぶとくんの死には涙しなかった私も、息子がお世話をしなくなり、代わりにせっせとお世話をしていたメダカが亡くなった時には大泣きしました。
「私が」可愛がっていたメダカが死んだからです。
先日、私の学生時代からの友人の旦那様が突然死をなさいました。
結婚式で一度お会いしただけで、その旦那様と私は特に面識がありませんでした。
その為、〇〇さんが急逝しましたと聞いても、とても悲しい事だと胸が痛みましたが、涙するほどではありません。
葬儀場の前で「〇〇家葬儀」のような看板を目にしても、通り過ぎる人々がそれで泣いたりもしないですし。
どれもこれも「私の」の感覚がそこには無いからです。
けれど、そのお通夜に参列した私は、涙を流しました。
お友達が憔悴して、悲しみに暮れている姿を目の当たりにして、泣く立場ではないと理解していても涙が出てきてしまいました。
それは「私の大切なお友達」が辛くて苦しい思いをしているのを目の当たりにしているからです。
この、ahaṃkāra「私の」と言う感覚は、意識していないだけで、あらゆるものに蔓延しています。
因みに私のお友達が悲しみに暮れて憔悴していたのは、人間として当然の心の反応ではありますが、
「私の夫」と言う強い「私の」の感覚があるからであり、親族の皆様が悲しみに暮らられているのも「私のお父さんが」「私の子供が」「私の弟が」と皆常に、「私の」の感覚に支配されているからです。
こうやって書くととても冷たく感じるかもしれません。
悲しむのが悪いと書いているわけでもありません。
私も、自分の夫が急逝したら憔悴どころの騒ぎではない事は容易に想像できます。
だから、それが良いとか悪いとか、そうゆう事ではなく、心の働きとして、心の原理としてのお話を書いています。
肉体すらも「私」ではない。病や死の苦しみから完全に自由になる方法
自分に近くなればなるほど、このahaṃkāra「私の」は強くなります。
自分の子供が辛い目にあった時など、「私の」子供、の思いが強すぎて、完全に同化して自分が同じ目にあった時以上に動揺する人などは多いのではないでしょうか?
まぁでも、「子供は子供の人生」としっかり線引き出来る人も一定数いる事でしょう。
でも、でもです。
自分の体の事になるとどうでしょうか?
その、あなたが日頃一体になって使っているその体です。
その体から「私の」を外すことは出来ますか?

え?だってこの体、私でしょ?
私から私を外すの…?
一般的にその体は「私そのもの」と思われるかもしれません。
でもその体、本当は「私」ではありません。
「私そのもの」では全く無いのです。
※この話は別記事で詳しく書き進めているところです。詳しくはそちらで。
体も「私の体」と勘違いし、そこに多大な執着をしているだけで、「私」ではありません。
肉体に対してahaṃkāra アハンカーラ「この肉体は私だ」「私の肉体だ」の感覚が無ければ、この肉体に起こる痛み苦しみ病や死に惑わされる事も乱される事もあり得ないのです。
駆除したゴキブリの最後に何も思わないのと同じように。
ヨガの経典の最も有名なものの一つ、バガヴァッド・ギータにこのような一節があります。
この「彼」と表現されているものが【本当の私】
ヨガではアートマンと呼ばれるものです。
ahaṃkāra「〇〇は私だ」「私の〇〇」と言う感覚全てと決別出来た先に、初めて出会えるのがその「本当の私」
今の自分は「病気そのもの」に苦しんでいるのか?「不幸な出来事そのもの」に苦しんでいるのか?
それとも「病気になっている私」に苦しんでいるのか?「不幸な出来事が起きた私」に苦しんでいるのか?
一度でも考えてみた事があるでしょうか?
それを考えてみたら、ここで言うahaṃkāra アハンカーラが消えたら、肉体の病や欠損、死がどうでもよくなるイメージがほんの少しは湧くかもしれません。
そして、そんなすさまじい境地、死の瞬間だけ火事場の馬鹿力でどうにかしてなれる境地ではなく、それまでの人生でいかにその為の修練を継続的に行ってきたかの結果にすぎません。
何事も原因があって結果がある。
前回の死の瞬間の境地は、今までの人生の集大成であると言う話は、その為なのです。
ヨーガ・ビージャ48節
48節
devy uvāca |
yoginaḥ kathyamānās tu kiṃ te vyavaharanti na |
taiḥ kathaṃ vyavahāras tu kriyate vada śaṅkara || 48 ||
女神が問う
ヨーギーの事が色々と語られているけれど、俗世ではどう生きるのですか?
彼らが現実の人々とどのように関わっているのか、どうか教えてください、シヴァよ。
ヨーガ・ビージャ 48節 解説
悟った人=社会と切り離される存在
そんなイメージがありませんか?
女神もそんなイメージを持っているようです。
内なる修行の世界であるヨガの完成を得ている人がこの、現象現実世界にどう関わり、どうふるまっているのか?
そんな問いを投げかけています。
これ、すごく気になりませんか?
かつて私も同じような疑問を持った事があります。
シヴァ神はどう答えるのでしょうか?
続きはまた次回…


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