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『ヨーガ・ビージャ』日本語訳:第8回|もしも肉体が「ただの車」になったら。シヴァ神が語る最強のヨーギーと死後の境地

シヴァに女神が教えを乞う、ヨーガ・ビージャ翻訳 Yoga Bija
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幻のヨガの書、ヨーガ・ビージャの日本語訳&解説を一般向けに初公開しております。
(こちらから原文を読んでいます↓)
詳細はこちら

前回、ヨーガの神様であるシヴァ神の話に
「内なる修行の世界であるヨガの完成を得ている人が、この現象現実世界にどう関わり、どうふるまっているのか?」と女神が問いかけて終わりました。

いったいヨーガの神様の話は何と続くのでしょうか?

The YogaBijam

 

ヨーガ・ビージャ49節~60節 原文&翻訳

49節
īśvara uvāca |
śarīreṇa jitāḥ sarve śarīraṃ yogibhir jitam |
tat kathaṃ kurute teṣāṃ sukhaduḥkhādikaṃ phalam || 49 ||
ヨーギーは身体を支配し、感覚を克服している。
そのような彼らに、なおも身体が快楽や苦痛の経験を与えることは、どうして起こるのだろうか?

50節
indriyāṇi mano buddhiḥ kāmakrodhādikaṃ jitam |
tenaiva vijitaṃ sarvaṃ nāsau kenāpi bādhyate || 50 ||
五感も心も知性も、欲望や怒りの衝動も制御されているなら、
それだけで全ては克服されたことになる。
そのヨーギーは、もはや誰からも、何によっても乱されることはない。

51節
mahābhūtāni tattvāni saṃhṛtāni krameṇa ca |
saptadhātumayo deho dagdho yogāgninā śanaiḥ || 51 ||
身体を形作る五大元素も七つの構成要素も、次第に解かれていく。
ヨーガの修行による内なる火が、それらを少しずつ焼き尽くしていくのだ。

52節
devair api na labhyeta yogadeho mahābalaḥ |
chedabandhavimukto ‘sau nānāśaktidharaḥ paraḥ || 52 ||
神々でさえ授けることのできない「ヨーガの身体」。
それを得た修行者は、いかなる破壊や束縛にも縛られず、
無数の力を宿す、至高なる存在となる。

53節
yathākāśas tathā deha ākāśād api nirmalaḥ |
sūkṣmāt sūkṣmataro dehaḥ sthūlat sthūlo jaḍāj jaḍaḥ || 53 ||
空のように澄み渡っているのが身体の本質である。
それは虚空をも超えるほど清らかで、最も微細なものを超えてさらに微細である。
また一方で、肉体は粗大な物質においてはどこまでも粗大で、無知なものとしてはどこまでも無知である。

54節
icchārūpo hi yogīndraḥ svatantras tv ajarāmaraḥ |
krīḍati triṣu lokeṣu līlayā yatra kutracit || 54 ||
ヨーガを極めた者は、己の意志のままに姿を取り、束縛のない自由な存在となる。
老いや死に支配されることなく、三界を自在に渡り歩き、ただ戯れるように遊ぶ。

55節
acintyaśaktimān yogī nānārūpāṇi dhārayet |
saṃharec ca punas tāni svecchayā vijitendriyaḥ || 55 ||
そのヨーギーは、不可思議な力を備え、望めば幾つもの姿を現し、また望めばそれらを消し去ることができる。
欲望や感覚に支配されず、自らを完全に制御する者である。

56節
maraṇaṃ tasya kiṃ devi pṛcchasīndusamānane |
nāsau maraṇam āpnoti punar yogabalena tu || 56 ||
月のように美しい御顔の女神よ、なぜ彼の死を問うのですか。
ヨーガの力を得た者は、もはや通常の死には縛られないのです。

57節
puraiva mṛta evāsau mṛtasya maraṇaṃ kutaḥ |
maraṇaṃ yatra sarveṣāṃ tatrāsau sukhi jīvati || 57 ||
もしある者がすでに(自己の誤同一視が)死んでいるなら――“死”がその者に何の意味があろうか。
すべての死(生没の束縛)が行き渡るところ、そうした場所においてその者は安らかに(真の)生を生きている。

58節
yatra jīvanti mūḍhās tu tatrāsau mriyate sadā |
kartavyaṃ naiva tasyāsti kṛtenāsau na lipyate || 58 ||
無知な者どもがはびこるところでは、知者はそこにあって常に『死んでいる』(=本来的な生が損なわれる)。
その場では彼に為すべき真の務めはなく、彼の行為の果実は(その環境では)彼に染みつかない/結びつかない。

59節
jīvanmuktaḥ sadā svasthaḥ sarvadoṣavivarjitaḥ || 59 ||
生きたまま解放された人は、いつも自分自身の本質に落ち着いていて、心を曇らせる要素に振り回されることがない。

60節
Viraktā jñāninaś cānte dehena vijitāḥ sadā |
te kathaṃ yogibhis tulyā māṃsapiṇḍāḥ kudehinaḥ || 60 ||
執着を手放した智慧者だけが、身体を超えている。
身体を“自分そのもの”だと思い込んでいる限り、ヨーガとは同列に語れない。

ヨーガ・ビージャ49節~60節 解説

インドの神様は意外と人間臭い?「ヨーガの身体」が神々を超える理由

この会話の中で、シヴァ神はヨーガを極めた人の身体を「神々でさえ手に入れる事が出来ない」と表現しています。

えええっっ⁉

って話じゃないですか?
神様より、もヨーガの身体の方が上なのか⁉と思わずツッコミをいれたくなるところです。

まぁでも、インドの神様達って、スーパー人間みたいな人達の集まりなんです。
確かに色々と人間よりもすごいのですけれど、物凄く人間臭く、誰よりも人間っぽい存在だったりします。
怒り狂ったり、泣いたり、嫉妬したり、喜んだりと、それはそれはお忙しいのですよ。
その点、私たち普通の人間と同じですね。

彼らは、感覚器官を克服した存在としては描かれていないので、ヨーガのゴールに達した人、即ち感覚器官を克服した人の身体は持ち得ていないのです。

肉体は「魂の乗り物」。あなたという存在は、いつも愛車の中にいる

ではでは、感覚器官を克服するとはどういうことでしょうか?

この話を考える時に、スタートラインとして、

あなたのその体はあなた自身ではない と言う考えを理解する必要があります。

理解は出来なかったとしても、納得出来なかったとしても、一旦「そうである」と言う目線で読み進めて下さい。

kittyなな
kittyなな

「いいや、この体は私だよね!」って視点に囚われてしまうと、ヨガの考えをうっすらとも感じられなくなってしまうよ☆

そう、あなたのその体は、あなた自身ではありません。

私は昔ヨガのクラスの最中によく肉体の事を「魂の乗り物」と表現していました。
ここでも車をイメージしてみると分かりやすいかもしれません。

車があなたの肉体です。
そして、あなた自身は車の中に乗っています。

その世界では、車に乗らないと行動が出来ないので、あなたは常に車に乗っています。
なので、あなたはいつも車に乗ってあちらこちらへ移動して、車に乗って色々な経験をしています。
そのうちに、すっかり車はあなたの一部になり、あなたは車と自分を同一視してしまいます。

色々な事が起こります。
車をぶつけてしまう事もありますし、エンジンの調子がおかしくなることもあります。
車体を塗り替えてみたり、磨いてみる事がだってあります。

その度にあなたは、悲しんだり嘆いたり、苦しんだり喜んだり、大忙しです。

本来、車は車自分は自分です。

車をぶつけたり擦ったりしたところで、乗っている自分自身が傷つく事はありません。
同じように車を磨いたり美しく塗り替えたところで、自分自身が美しくなるわけでもないのです。

けれど、すっかり車イコール自分自身になってしまっているあなたは、車の状態で自分自身が損なわれたり、または価値あるように感じたりします。
常に一喜一憂、本来自分ではない車に振り回され続けます。

実際、日常で車と自分を完全に同一視して生きている人はいません。
けれど、車に対する思い入れでその反応が大きく変わるのも事実です。

車が大好きで、車に愛着があり、「自分の車」と思って大切に大切に扱っている人は、半分同一視しているような状況に陥る事があります。
少しでも車に傷がついてしまったら、激しく落ちこみ、大きく損傷するような事でもあった日には人生の終わりくらいの心境になってしまいます。

また、世間的価値の高い車に乗っている事で、自分の価値が高いと勘違いしてしまったりすることもあるかもしれません。

これ、逆に車に全く関心がなく単なる移動手段としか思っていないような人は、全く気に留めないことだったりします。
日本ではボロボロの車が走っているのを見るのは少ないですが、海外ではボコボコボロボロの車が普通に走っていたりしますよね。
その車の持ち主は別に悲観もしていなくて、恥ずかし気な様子もなく、堂々と乗り降りしています。
彼らにとって車は「ただの移動手段」でしかないため、動いて目的地に到着出来たらその他全く問題ないのでしょう。

小見出し案:厄介な「感覚器官」という有線ケーブル。プラグを抜いたヨーギーが見る景色

では、仮に肉体が車のようなものだと理解出来たとします。
理解できたところで、「でも…」と思いませんか?

本当の車と人間は特に繋がってはいません。
だから、車をぶつけたり擦ったりしても、多少の衝撃を感じる事はあれど物理的な痛みを感じる事はあり得ません。

その為、車と自分は別の物と言われても「そりゃそうだろう。」と思えるのです。

けれど、実際人間の肉体とその中身?は感覚器官でガチガチに繋がれています。

この感覚器官が異常に厄介で、肉体を自分自身と勘違いする大きな原因になっています。
感覚器官の大きな衝撃さえ克服出来たら、車と自分のように肉体と自分も考えやすくなるのです。

ヨガでは人間の肉体は五大元素からなり、七つのダートを持っていると考えていますが(詳しくは機会があったら)、これらはヨガの修行を積み重ねる事で感覚器官から解放されて「自分自身」という範囲から離れていくとシヴァ神は教えてくれているのです。

車に乗る人が車を自分自身と思い込んでいたら、その人はずっとその車に乗り続けていなければなりません。
けれど、車に乗っているだけだと知っていたら、時によって乗り換える事が出来ます。

車がどんなに古くなっても、中に乗っている自分自身が古くなるわけではありません。
時によって自転車に乗ったり、飛行機に乗ったり、電車に乗ったり自由自在です。

そうであれば、今乗っている車が大破する事を恐れる必要もないし、もはやその人はその車とは全く別に生きています。

これ、車を肉体だと考えてみたら、シヴァ神が話している内容が少しイメージ出来ませんか…?

彼はもはや、車を自分自身と思って生きている人々と、生きている世界が違うのを感じられるかもしれません。

kittyなな
kittyなな

これは、よく世間で聞く生まれ変わりの話とは違います。
「生きている状態で、肉体とは別に生きる」と言う事です。

ヨーガ・ビージャ61節 原文&訳

61節
devy uvāca |
jñāninas tu mṛtā ye vai teṣāṃ bhavati kīdṛśī |
gatiḥ kathaya deveśa kāruṇyāmṛtavāridhe || 61 ||
女神は尋ねた。
生前に真理を悟った智者たちは、肉体を離れた後、
どのような境地へ至るのでしょうか?
どうか慈悲深きシヴァよ、その死後の状態をお教えください。

ヨーガ・ビージャ61節 解説

女神は、「感覚を克服して肉体を超越したような人は、死んだ後はどんな状態になるのか?」と聞いています。

実はこれって、インド哲学全体での重要感心事だったりします。

  • 生きている間に悟った人は、肉体の死後も完全にそれが継続されて、普通の人たちが死んだ時とは別の状態にあるのか?
  • はたまた、生きている期間だけの一時的な状態であって、肉体の死後は普通の人たちと同じ状況になってしまうのか?

さてさて、ヨーガの神様、シヴァ神はどう答えたのでしょうか?

続きは次回…♪

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