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赤ちゃんは「まっさら」ではない?カルマとサムスカーラが形作る、私たちの「個」の正体

日々是ヨガ

「赤ちゃんは真っ白なキャンバスのよう」

だなんて、誰が決めたのでしょうか?
かつて「おむつのCMに出せるほど可愛い」と絶賛され、全身から生きる喜びを振りまいていたらしい私。

けれど、その小さな掌の中には、生まれ持った「強烈な悲しみ」も握りしめていました。

ヨガが説く「カルマ」と「サムスカーラ」という視点から、私たちが生まれ持ってきた「個性」の謎を紐解きます。

 

かつて私は、爆裂愛嬌の塊だった

Once upon a time…と、思わず昔ばなしを語ってしまいたくなるほど大昔、私はとても可愛かったらしい。

そう、本当に大昔の話である。

 

かれこれ半世紀近く前、赤ちゃんだった私は、病院に連れて行けば

おむつのCMや赤ちゃんCMに出したら良いほど可愛いですね!

とお医者様や看護師さんから言われ、母が連れ歩けば、

キャー、カワイイ♪

と人がわらわら寄ってきた程だそうだ。

 

別に、絶世の美女だったわけではない。

いわゆる顔面偏差値で言うと、おそらく真ん中くらいなのでは?と思われる。

 

では、何がそんなに可愛かったのか。

それは、生まれながらに爆裂愛嬌があったのだ。

 

兎に角ニコニコニコニコ。

いつもニコニコとご機嫌で、そこらかしこに愛想を振りまくっていたそう。

 

かつて母は、赤ちゃんから幼少期にかけての私を「生きる喜びが全身から溢れ出ているような感じだった。」と表現していた。

それだけ、この世に生を受け、生きている事自体をニコニコと楽しんでいたのかもしれない。

 

4歳の春、私は「永遠の命」を断固拒否した

けれど私、同時に生きる悲しみも小さな手に握りしめて生まれて来ていたと感じている。

 

あれは4歳の頃、通っていたキリスト教の幼稚園で「永遠の命」と言う言葉を初めて耳にした。

その時、小さな胸に沸き起こった強烈なザワザワは今でも忘れない。

心の中に強烈な拒否感が生まれたのだ。

 

「永遠の命なんて欲しくない!どの世であっても永遠に生きるなんてごめんだわっ!!」と。

 

その後、生まれ変わりの概念を初めて知った時も同様の拒否感が沸き上がった。

 

「この世に何度も生まれてこなければならないなんて、ごめんこうむるっ!!」

 

断っておくが、私は不幸な生い立ちを送っていたわけではない。

むしろ、どちらかと言うと絵にかいたような理想的(?)な幼少期だったであろう。

愛嬌の塊だった故に、周りの大人たちからは大変に可愛がられ、両親は優しく穏やかで生活も安定していた。

2つ上の子供なのに何でもできる姉は妹にまで優しく、近所にお友達もたくさんいて、ただただ毎日楽しく暮らしていたそこら辺にいる、悩みのない一般的な幼児である。

もし、不平不満があったとしても、もっとオヤツが食べたいとか、欲しいおもちゃがあるけどお誕生日まで我慢とか、そんな話である。

そんな、能天気にもほどがある生活の中でも、永遠の命や生まれ変わりを拒む心がものすごく強く沸き上がるだ。

だから、それは私が生まれながらに握りしめてきたものではないか?と感じずにはいられない。

そしてその私が持っている「生きる悲しみ」はいつも心の内に秘められ、外には出ないように設計されて生まれて来た人間であろうようにも思う。

 

ヨガの世界観:赤ちゃんは「前世の続き」を生きている

よく「生まれたての赤ちゃんはまっさら」なんて表現をされる事があるけれど、ヨガの世界の考えはちょっと違う。

ヨガをはじめとするほとんどのインド哲学では、生まれ変わりの概念がある。

人間は何度も死んで、そして、何度も生まれ変わっているというものだ。

その為、生まれてきた赤ちゃんも、実は何度も前世があったと考えている。

 

だから生まれたての赤ちゃんも決してまっさらではない。

前世、前々世、前前前世から続く、カルマやサムスカーラから形成され、それが表現されているのだ。

 

カルマ 行為とその結果のこと
    よく日本では因果応報と表現される
サムスカーラ 潜在印象・残存印象

       過去の行為や経験や感覚によって心に刻み込まれた記憶や潜在的な印象

 

確かに、我が息子と娘、同じ両親の遺伝子を引き継いでいるのにも関わらず、生まれた時からその存在は性別を超えて大きな違いがあった。

とてもじゃないけれど、まっさらの同じ状態で、生活環境や教育だけで違いが出ているとは言い難い。

 

彼らには明らかなる個の違いが生まれながらにあった。

そしてしれは、あなたも私も同じである。

 

私はその、何回もあるらしい前世からのカルマやサムスカーラの出現の結果、当時の価値観において愛想爆弾の“可愛い” と称される赤子として生まれて来たのだろう。

掌に悲しみを隠し持って。

 

自我が芽生え、名前を知った時から「苦しみ」は始まる

かつて、インドのヨガ哲学の大先生に質問した事がる。

「赤ちゃんの頃は悩み苦しみが無いと言うのなら、いったいいつから人間は悩み苦しみ始めるのですか?」と

 

答えは明確だった。

 

自我が芽生えた時から。

自分の名前を知った時から。

 

なるほど。

人間は自分が「〇〇と呼ばれる一つの存在」と認識しなければ、自我も芽生えず、その場瞬間の苦痛はあれど、いわゆる人間が溺れている【悩み苦しみ】は生まれないのだ。

 

その後、自分が〇〇だと知り、自我が芽生えた私はいわゆる【悩み苦しみ】を知り、新たなカルマとサムスカーラを積み上げ続け続けた。

結果、当たり前のように可愛い愛嬌爆弾ではなくなった。

もう、現実の私をどどーーーんとご披露したら、誰しもが「えっ??可愛い愛嬌爆弾?いずこ?」と首をかしげたくなる事態に変貌している。

 

とは言え、世間で「おばさん」と呼ばれる世代の存在で、無条件に周りから「きゃ~~♡可愛い♪」と言われる人なんて生まれてこの方見た事が無いので、当然のことであろう。

 

今世のカルマをなぎ倒した先に、何がいるのか?

では、あの愛嬌爆弾の可愛い子は山積みになっていくカルマとサムスカーラに押しつぶされて消えてしまったのであろうか?

 

否、そうではない、と感じている。

 

 

確かに、おばさんと呼ばれる立場の私に、愛くるしかった面影など微塵もないかもしれない。

 

けれど私は、生まれてこの方、怖い夢を見た事が無い。

なんなら夢は、いつも現実よりも楽しい。

 

そして、どんなに嫌な事があろうと、どんなに辛い状況に陥ろうと、一晩寝て目が覚めたその瞬間はいつも、歌い踊りまくりたいくらいハッピーなのだ。

「ええと…、今日の予定は…」などと考えて初めて「やばっ!ウキウキしている場合じゃなかったわっつ」と、毎回現実の現象に気分をチューニングしないとおかしな乖離が生まれるほどだ。

 

これはきっと、膨大な今世のカルマとサムスカーラの陰に隠れているだけで、その中心には、前世までのカルマとサムスカーラの表現(要するに生まれた時の私の個性)がいつもニコニコとそこにいるからではないか?と考えている。

ヨガとは、このカルマとサムスカーラの克服である。

きっと今世のカルマとサムスカーラを全部なぎ倒す事が出来たら、そこにはかつての愛嬌爆弾がそこにいるのではないか?

そして、その生まれ持った前世までのカルマとサムスカーラすら克服した先に、本当の自分自身がいるとヨガでは説いている。

そう、私で言えば、ニコニコご機嫌なその性質すら取っ払った先に、本当の本当の私が鎮座ましましているということだ。

なんとも壮大な話ですね。

そうだなぁ…出来れば、おばあちゃまになる頃に、今世でのカルマとサムスカーラの克服が出来ていたら、きっと私は爆裂可愛いおばあちゃまになれるでしょう(希望的観測、笑)

そして、最後の最後の日までに前世のカルマとサムスカーラも克服出来たら、私はマハーサマーディに入れることでしょう。(冗談ですよ、もちろん)

※マハーサマーディ=ヨガの聖者が亡くなった時のみ使われる言葉

kittyなな
kittyなな

ここまで書いておいてなんですが、私はヨガのお話をする人なので、前世やら何やらと書いてますが、同時に生まれ変わりたいと全く思っていない人でもあるので、生まれ変わりの概念を心の底から信じているかと言えば…それは…モゴモゴモゴ…と言う感じです☆

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